研究の紹介
「女ことば」における認識的不正義
『82年生まれ、キム・ジヨン』日本語翻訳の分析
韓国朝鮮語の原文では、男性キャラクターも女性キャラクターも同じ文末表現を使いながら、 日本語訳では、男性の発話が「です」、女性の発話が「わ」などになります。 この訳し分けは、証言的不正義(Fricker 2007)の一種を構成する──それがこの研究の主張です。
背景女性の発言に課される非対称な制約
2015年から2016年の韓国で、ミラーリングという運動が展開されました(柳 2024)。MERSの第一感染者が香港帰りの20代女性2人だという虚偽情報が広まり、女性へのバッシングが止まらなかったことがきっかけです。実際の第一感染者は、中東から帰国した男性でした。
ミラーリングとは、女性に向けられる侮蔑表現を、鏡に映すようにそのまま男性へ投げ返す戦略です。김치녀「キムチ女」には 김치남「キムチ男」を返し、表現の暴力性を使う側に自覚させようとしました(李 2016)。
ところが掲示板の運営は、「キムチ女」を許容したまま、「キムチ男」のほうを差別用語として規制しました。対照的な表現でありながら、一方だけが禁じられたことになります。また当初、この運動は女性のふりをした男性の仕業だと考えられていました。女性が男性と同じように、あるいは男性よりも汚いことばで罵るはずがない、と信じられていたからです(趙 2018)。
女性の発言には、このように男性と非対称な制約が課されています。この研究が明らかにするのは、そこに重なりつつ生じる、日本語という言語の性質に依存した制約です。
分析同じ文末表現が、性別で訳し分けられる
ひとつ前提を確認します。現代日本語の話しことばには男女差があると一般に信じられていますが、現実の談話資料にもとづくと、想定されるほどの差は存在しない可能性が指摘されてきました。明確な男女差があるのは、小説やドラマといったフィクション作品の話しことばに限られます(水本ほか 2006)。翻訳作品において女性が「女ことばを話す存在」として表象されることは、『クララとお日さま』日本語訳の分析でも示されています(和泉 2025)。
この研究は、チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(2016)の韓国朝鮮語原文と、斉藤真理子による日本語訳(2018)を比較します。まず、日本語の「です」「ます」に近い、丁寧さを表わす文末表現から。
丁寧さを表わす
요
ヨ
僕、ジヨンの会社の同期なんですが…
저 지영이 회사 동기인데요…
ジヨンの同僚男性/原著 p.224・訳書 p.130
今日は会えてとっても嬉しかったわ。
오늘 만나서 너무 반가웠어요.
ジヨンの母/原著 p.214・訳書 p.117
次は、「じゃないか」「じゃん」に近い表現です。同意を求める確認にも、詰問的な非難にも使われます。
確認・非難を表わす
잖아
チャナ
男子は休み時間の十分の間もじっとしてないだろ。
남자애들은 쉬는 시간 10분 동안도 가만히 안 있잖아.
男性教師/原著 p.165・訳書 p.55
朝からずっと、けちばっかりつけてたもの。
아침부터 계속 트집 잡아서 혼냈잖아.
ジヨンの女友達/原著 p.156・訳書 p.46
三つめは、「だ」「だよ」に近い、断定的な調子をともなう表現です。
呼びかけ・強調を表わす
야
ヤ
この上履きは誰のだ?
이 실내화 누구 거야?
男性教師/原著 p.152・訳書 p.40
やりたいことは他にあるんだもの。
내가 하고 싶은 일은 따로 있단 말이야.
ジヨンの姉/原著 p.180・訳書 p.74
ある言語のひとつの語が、別の言語で複数の形に分かれること自体は、めずらしくありません。「ワニ」が alligator と crocodile に分かれるのと同じです。問題は、分かれ方のパターンにあります。女性に割り振られる文末表現は、男性が用いる文末表現よりも、一貫して主張の度合いが弱いのです。
対比「女ことば」を使わないと「不良」になる
では、この訳し分けを導入しないとどうなるのでしょうか。作中に、それを確かめられる場面があります。ジヨンの中学生時代、変質者への対応について教師から理不尽な説教を受けたクラスメートの発言です。
あたしらが何したっていうのさ? 何を反省しろってんだよ! あたしがいつ脱いだんだよ?
우리가 잘못이야? / 뭘 반성하라는 거야, 도대체! / 내가 벗었어?
原著 p.30・訳書 p.58/原文の文末表現は、上で見た 야 と、口語的な疑問を表わす 어(オ)
原文では同じ表現が使われているのに、訳文では「女ことば」が避けられています。重要なのは、この話し方を割り振られたのが「不良」だという点です(「あたしら」も関連しますが、本研究では人称をとりあげていません)。「優等生」や「普通」の生徒の話し方ではなく、そこから逸脱した女性の話し方として、「女ことば」の不在が選ばれています。フェミニズム的言語研究が指摘してきたように、「女ことば」の不使用には逸脱性の含意がともないます(Lakoff 1975)。
「んだよ」そのものに「不良」の意味がないことは、次の発話からわかります。
ふだんは最初の客に女は乗せないんだけどね、ぱっと見て面接だなと思ったから、乗せてやったんだよ。
原著 p.53・訳書 pp.108–109/この運転手は「不良」ではない
同じ語を女性が使うだけで、「不良」という人物像が立ち上がります。この訳し分けは訳者に固有の傾向ではなく、読者に違和感を与えない「自然な」女性を描くために必要なのです。使わなければ「不良」になるのであれば、使わないという選択肢はありません。
理論証言的不正義と「女ことば」
この現象を捉える道具が、フリッカーの認識的不正義論です(Fricker 2007)。認識的不正義は、知識の伝達を阻害する証言的不正義と、知識の獲得そのものを阻害する解釈学的不正義に分けられます。証言的不正義とは、話し手の社会的属性への偏見のために、発言の信用性が不当に低く評価されることです。典型例は、黒人であるという理由だけで、法廷で証人が信用されない事態です。
フリッカー以降の重要な展開として、証言的不正義の言語的メカニズムが吟味されてきました。ピートは、女性起業家のプレゼンが男性起業家より低く評価されるという社会心理学的知見(Brooks et al. 2014)を踏まえた議論を展開しました(Peet 2017)。注目するのは、“Consumer data suggests x” のような文の解釈可能性です。動詞 suggest は「強く示している」とも「方向性を暗示している」とも解釈できます。そして女性の同じ発言には、より弱く自信のない解釈が与えられる、と論じました。ククラは言語行為のレベルを検討します(Kukla 2014)。“Please put that pile over here.” という上司の発話は、男性なら「命令」と解釈されるのに対し、女性の場合は権威の低い「依頼」や「お願い」と解釈されてしまうのです。
「女ことば」による訳し分けは、これらと同じ構造を持ちます。「わ」は、聞き手にわかってほしいと働きかける表現だと分析されてきました(マグロイン・花岡 1993)。「もの」は、辞書的にも、不満やあまえの気持ちを込めて理由を述べる表現とされます(山口 2018)。ピートの起業家の例で比べるなら、「Xへの投資が必要だ」と「Xへの投資が必要なのよ」は同じ事実関係を述べていますが、後者に前者と同等の断定性はありません。잖아 や 야 が女性の発話でだけ「〜んだもの」になるとき、ククラの指摘した言語行為の格下げ──主張なのか、独り言のような感想なのか判然としなくなる──も同時に起きています。
ここに、この研究の学術的な意義があります。ピートやククラの議論は、同じ発話への解釈が性別で異なるという理論的な主張であり、そのような解釈の複数性が本当にあるかどうかは、経験的な検証を待つ必要があります。一方、「女ことば」の事例は言語表現のレベルで明示的に生じています。女性話者にのみ「〜んだもの」が割り振られていることに、疑問の余地はありません。日本語を経由した議論は、英語事例にもとづくこれまでの議論を補強するのです。
害を被るのは、架空のキャラクターではなく現実の人間です。不当な処遇への正当な怒りは「〜んだよ」のほうが適切に伝わりますが、その話し方は女性に許容されていません。加えて、「女性は女ことばを話す」という通念そのものが、翻訳によって再生産され続けます。
ポールハウスは、証言的不正義の被害者を「切り詰められた主体」(truncated subject)と呼びました(Pohlhaus 2014)。女性は発言を封じられているわけではなく、男性と同じ命題を「自由に」発話できます。しかしその述べ方には制限がかかっている。言語的制限により、主体性が減少します。「女ことば」は切り詰められた主体を実現するひとつのあり方だと思われます。
出典・参考文献
紹介した研究
和泉悠・小畑晴香・吉村彩花「「女ことば」における認識的不正義──『82年生まれ、キム・ジヨン』日本語翻訳の分析」。2026年8月2日、フェミニズム哲学ワークショップ(学習院大学目白キャンパス)における同題の発表を含む。引用した作品の文はいずれも分析対象として原論文に掲げられているもので、ページ数は原著と2023年刊行の日本語文庫版(第二刷)を示す。
- Brooks, A., Huang, L., Kearney, A., & Murray, F. (2014). Investors prefer entrepreneurial ventures pitched by attractive men. PNAS, 111(12), 4427–4431.
- 趙慶喜(2018)「韓国における女性嫌悪と情動の政治」『社会情報学』6(3), 35–47頁.
- チョ・ナムジュ(2016)『82년생 김지영』民音社.(斉藤真理子訳(2018)『82年生まれ、キム・ジヨン』筑摩書房)
- Fricker, M. (2007). Epistemic Injustice. Oxford UP.(佐藤邦政監訳(2023)『認識的不正義──権力は知ることの倫理にどのようにかかわるのか』勁草書房)
- 和泉悠(2025)「『クララとお日さま』における“女ことば”の分析」中村靖子監修、南谷奉良編『生成AI×ロボティクス』(AAA叢書2)春風社, 221–240頁.
- Kukla, R. (2014). Performative force, convention, and discursive injustice. Hypatia, 29(2), 440–457.
- Lakoff, R. (1975). Language and Woman’s Place. Harper & Row.(かつえ・あきば・れいのるず、川瀬裕子訳(1985)『言語と性──英語における女の地位』有信堂)
- 李聖娥(2016)「フェミニズムは誰のもの?──女性嫌悪発言から見る現代韓国社会」『早稲田社会科学総合研究別冊』57–67頁.
- マグロイン花岡直美(1997)「終助詞」井出祥子編『女性語の世界』明治書院, 33–41頁.
- 水本光美・福盛寿賀子・福田あゆみ・高田恭子(2006)「ドラマに見る女ことば「女性文末詞」──実際の会話と比較して」『北九州市立大学国際論集』4, 51–70頁.
- Peet, A. (2017). Epistemic injustice in utterance interpretation. Synthese, 194, 3421–3443.
- Pohlhaus, G. Jr. (2014). Discerning the Primary Epistemic Harm in Cases of Testimonial Injustice. Social Epistemology, 28(2), 99–114.
- 柳采延(2024)「韓国におけるフェミニズムの最前線と新しい運動主体」『常葉大学外国語学部紀要』40, 1–12頁.
- 山口豊(2018)「「だもの」という表現について」『武庫川女子大紀要(人文・社会科学)』66, 23–31頁.